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2011年4月24日日曜日

疎開 Part Ⅲ

疎開 I 3/14 から1週間 福岡
疎開 Ⅱ 3/20から3週間 香港
疎開 Ⅲ 4/24から2週間 福岡
ということで、東京で2週間すごしたあと、再び家族を疎開させる。原発災害から6週間たっているのに、いつ何を持って収束とするのかすらわからない状況。果して東京の汚染度はどの程度か。安全な食料の流通は如何に担保されるのか。全く分からない。子供の健康についてのリスク許容度はゼロ!ということで、再疎開を決意する。取り敢えず、連休明けまでが目途だ。帰ってくる条件は、安全な食品、水の確保が出来る事と、東京の汚染状況が把握出来、それを許容できることか。

徐々に分かってきたことだが、東京に大量の放射能物質が降りそそいだ3/15に、子供達はすでに福岡に疎開していた。あれだけの混乱の中で、香港行きが急きょ中止になったわけだが、よくぞそのまま福岡行きの飛行機に載せたと思う。我ながら、的確な判断であった。

震災を機会に、自分のオリジンは?価値観は?人生観は?家族観は?と色々な事を考える。やはり、家族は一番だ。一方、東京に暮らしているということに強烈な疑問を抱きつつある。もともと、東京に憧れたことなど一度もなかった。地元の大学に行こうと思っていたら、高3の夏休みに勉強しすぎて成績が上がり、勿体ないから東京の大学を受けたという、非常に消極的なきっかけでこの地に来たのだった。以来、通算15年もこの街に住む羽目になってしまった。これまで住んだ福岡なり、札幌なり、ロンドンなりは、「あーー、この街って最高!本当に住んで良かった!」と実感することが多々あった。東京で、これまでにそう感じたことが一度足りとてない。本当に、一度もない。なんで、こんなに嫌な所に、住み続けているのであろうか。幸い、多額のローンを組んで生涯をこの地にコミットする様な事はやっていない。今年は、原発を良いきっかけとして、自分が追求したいライフスタイルを見極める元年にしたいと思う。

福岡へ、中期疎開するのもその一環だ。



2011年4月23日土曜日

新聞切り抜き

「3・11以降全てが変わってしまった」と思うとやるせない気分になる。しかし、僕は「3・11以降全てが表に出てきただけ」だと思っている。今、起きていることは大変なことで、日々、家族の健康安全をどう確保しようか、これまで当たり前だと思っていたことを叶える為に苦心している。驚いたのは、国の姿勢だ。「健康で文化的な最低限の生活」という憲法の文言をご存じないのか。出てくるのは安全デマ。風評被害という風評被害。あれだけ税金払ってるのに、あの金は一体何に使われているのか?憲法に謳われていることを実行する為ではないのか?
一連のドタバタは、日本がドンドン駄目になってしまった構図のハイライト版を見ているような気分だ。演じている当事者は、必死で平静を装う努力をしており、それが可能だと思っている。しかし、このハイライト版は、誰が見ても理解できるほどやさしく編集されている。震災、原発人災からまだ2ヶ月たっていない。まだ、混乱期だ。しかし、この出来事がどういう風に捉えられ、どの様に進んでいくか、私にはある程度見通せている気がする。

そう考えているのは僕だけか?Blog、雑誌、Twitter、新聞などでかなり共感を得られる文章にときどき出くわす。特に、今の気分を代筆してくれた様な文章に出会うと、心底うれしい。今日はそんな二つの切り抜きをUpしたい。

 読売新聞 5/9朝刊 文化面 上田 紀行氏 「震災後」新しい日常へ
この人、だれか知らない。でも、僕の心の中を完全に言語化してくれている。非常に有難い。そうだよね。3・11前に戻りたいかと言うと、そうじゃない。僕らは、震災、いや原発災害によって炙りだされてしまった「日本はこんな国。ハイライト版」を見てしまったのだ。「不思議なのは・・・・震災前の日常に戻れば良いとは思えないことだ。震災前の社会に私たちが感じていた違和感を炙りだすものでもあり、新しい自分、新しい社会への再生を促しているようにも思われる」 そうなんだよ!! 
「個と全体の枠組みの変化」。なるほど、必死で情報を集めて、誰にも頼らず、自分の経験と直感で最善の行動を取ろうとした。これは、「個と全体の枠組みの変化」なのか。

続いて、日経新聞 5/1朝刊から。またまた、水無田気流と言う人を僕は良く知らない。でも、時々新聞でコラムを目にして、なかなかいい文章を書く人だなぁと思っていた。今回も、ふと目に入って読んでいるうちに心底共感した。
あえて言えば、今この国は「戦時」である。」から始まる最後の文章が秀逸だ。



「これから」のために
水無田気流

2011/5/1付
日本経済新聞 朝刊
三歳の息子は、テレビに子どもたちがたくさん映ると大喜びする。最近、例の東日本大震災で被災した地域のお子さんたちがよく映されるのだが、「お友だちがいっぱいだね! いっしょに遊びたいね!」と言って嬉(うれ)しそうに跳ねている。まだ、その意味を知らない子である。被災者のみなさまには、心よりお見舞い申し上げたい。
☆ ☆ ☆
三月一一日午後二時四〇分、私はバスに乗っていた。都心の専門学校で講義予定であった。駅に着く直前、運転手がつぶやいた。「あれ……揺れてる? 信号機が、見えづらいな」。不穏な言い方であった。五分後、世界が変わった。
三鷹駅で、地震に遭った。最初の一分くらいは誰も騒がなかったが、揺れが長引き、大きくなるにつれてさざ波のような悲鳴が広がっていった。私はと言えば、自宅にいる息子と夫が心配で頭の中はぐちゃぐちゃである。揺れが収まったところで携帯電話をかけてみたが、やはりつながらない。構内の店舗に頼んで電話を借り、自宅にかけた。
幸い、夫と子どもは無事であった。だが夫によると本棚の一部が壊れ中身は散乱し、割れたガラス片が飛び散っていると言う。講義予定の学校に連絡したら事務員ではなく知人の講師が出て、「こちらもパニックです」と言う。そうこうするうちに、駅員が拡声器でアナウンスしはじめた。「危険ですから、駅構内から退避してください!」とのこと。追い立てられるように、駅を後にした。
それから先の記憶は、思い出そうとすると、なぜか白黒画像で浮かび上がってくる。駅前の公衆電話から学校に再度電話し、休講を確認した。歩きながら、雑貨屋で軍手と絆創膏(ばんそうこう)とガムテープを買った。地震後の商店街は、異常なほど静かだった。バスが来たので飛び乗った。家に帰ると、あらゆるものが飛び散っていた。とりわけ書斎は壊滅的で、この惨状を見た息子の第一声は「すごい力が、すごい力になったんだね」だったそうである。
☆ ☆ ☆
がっくりくる出来事も多々あった。久しぶりに大学院の先輩からメールがあったかと思えば、「コスモ石油の爆発により、有害物質が雨などといっしょに降るので気をつけてください」という有名なデマであった。別の先輩は、「あれは地震兵器に違いない」と主張しているらしい。もう、何が何やらである。
だがその後の津波、原発事故の悲惨さを思えば、私たちの被害などかわいいものである。私の親戚は東北・北関東在住者ばかりだが、みな甚大な被害を受けた。仙台の叔父たちは被害の大きかった若林区在住である。震災から数日間、音信不通であった。福島県いわき市在住で、福島第一原発から三〇キロ地点に住む伯父たちへの放射線の影響も気になる。
私の実家は親戚づきあいが緊密で、子どものころはそれが少々鬱陶しかった。だが一七年前交通事故で母が亡くなり、同じ事故で妹が入院、父がしばらく抑鬱状態に陥っていたときには、ずいぶん助けてもらった。温かい人たちである。今、テレビをつけるたびに、子どものころから馴染(なじ)んだ場所の悲惨なニュースが飛び込んでくる。とても悲しい。
そのうえ、自分たちの安全に関わるニュースも、国内外で報道されるようになった。首都圏の大気や水道水の放射線量の数値も上がった。私はこの一か月以上、正直何を信じれば良いのか分からない中、子どもの安全を確保することに神経をすり減らしてきた。まして、妊婦や乳児の親御さんの心配はいかばかりかと思う。放射性物質は、とりわけ小さい子どもに有害だと聞く。「ただちに健康に問題はない」といわれるが、それでは「いつから」問題になるのだろう。大気だけではない。水や土壌に食糧など、総量で見ればどれだけの影響があるのだろうか。
哲学者のM・ハイデガーは、「原発とは、ひとたび造ると人間が管理させられてしまう」ものであると論じていたが、私たちが直面しているのは、まさにこの問題である。現に事故は起きている以上、責任者各位にはくれぐれも適切な管理をお願いしたいが、今なお「安全」な数値の解釈をめぐってさえ、混乱が見られる有様である。
東京、二〇一一年四月現在。福島第一原発事故は、チェルノブイリと同じ「レベル七」と公表されてから、二週間が過ぎた。被災地ほどではないが、平穏な日常からは位相のずれた日々を、私たちは送っている。だが、ここは私の国で、生活の場で、仕事もある。家族を守る責任も覚悟もある。逃げ出すことはできない。だからせめて、将来的にも影響の大きい子どもたちの健康に最大限配慮した対応を切望する。
☆ ☆ ☆
現在、これを書いている私の頭上を、回転翼の重たい音を立てて軍用ヘリコプターが飛んでいく。三月一一日以来、毎日のようにこの音を聞いている。どのような任務を受けて飛んでいくのだろう。この音を聞くたびに、どうかできるだけ多くの方々の命を助けてくださいと、祈るばかりである。息子は無邪気に「戦闘ヘリコプターだ!」と指さして喜んでいる。
あえて言えば、今この国は「戦時」である。日本は、災害から復興するだけでは足りない。最大の「敵」は、今まで私たちの日常を覆っていた巨大な無関心である。それこそが、経済効率最優先で人命や安全性を顧みない社会を生んだ。だからこれから先は、さまざまな問題と闘わなければならない。何のために? 未来のために。それを生きる子どもたちや、今後生まれてくる無数の子どもたちのために。すべてのこの国の「これから」のために。
みなした・きりう 詩人、社会学者。1970年生まれ。詩集に「音速平和」(中原中也賞)、「Z境」(晩翠賞)。近著に「平成幸福論ノート」(本名の田中理恵子名で刊行)。
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最後は、読売新聞5/18から。「貞観地震 国家崩壊の序章」。福岡出身の僕としては、地震は本当に怖かった。東京に出てくるまでに体感した地震は、震度3が1回、震度2が1回だけである。東京はしばしば揺れると聞き、やはり大学は京都にしようかとまじめに考えていた。しかし、いざ東京に出てくると、思いのほか地震は少なかった。奥尻島の地震が最大だったのではないか?なーんだ、こんなものかと安堵した。しかし、ここ数年、富に地震が増えている。どうも、地震の活動期入りしたという説もある。そんな中目にしたのが、この記事。850年からの数十年。正に日本は天災のてんこ盛り。最後は、政府が潰れてしまった。もし、我々がこの序章に居るとすると.....。如何に覚悟を決めるべきか。如何に生きるべきか。

 


2011年4月12日火曜日

Stokke Xplory

我が家の子育てギアの中でも秀逸だったのが、Stokke Xplory
これに乗せると、顔の位置が1.3m程度になる。このメリットは非常に大きい。1)お散歩しつつ、赤ちゃんとのアイコンタクトが可能 2)灼熱の道路から距離を置くことが可能 3) レストランではここにくくりつけたままで、ちょうどよい高さで食事が可能 4)そして、東京も放射能汚染された今、少しでも高い位置に顔があるというのは、非常に大きい追加的なメリットとなった。



色んな装着が可能です。車輪の内側にベアリングが入っていてとってもスムース。指一本で動かせます。

たたむとこんな感じ。ワゴン車なら難なく入れられます。

Stokke隊。生まれはNorwayです。

レストランに入るとこんな感じ。

2011年4月10日日曜日

東京のさくら

香港出張が3週間となったため、東京で桜を見る事はあきらめていた。しかし、なんと桜の花は待っていてくれたのだ。例年より1日遅れの4/6が満開だったそうだが、最近は3月中に満開を迎えていたような気がする。日曜日一日で、毎年のスポットをはしごするしかない!

 先ずは自宅近くの公園


 神田川沿いの桜も定番。
 高井戸から電車に乗る。高井戸駅を過ぎて見えるさくらも良いもんだ。学生時代から変わらぬ風景。
 行き先は勿論、井の頭公園。井の頭線は年に数日だけ、お花見シーズンに「井の頭公園駅」に急行が止まる。

 さてさて、やはり1日だけでは物足りない。12日に午後半日休暇を取り、先ずは「神代植物園」。
 締めは、ちょっと暗くなり始めたがやはり国立。大学通りの桜を見ないとやはり春が来た気がしない。
残念ながら、毎年恒例の昼休み、千鳥が淵はかなわなかったが、諦めていただけあって大満足のお花見だった。来年は、どういう気分でこの桜の花を眺めているであろうか。

2011年4月9日土曜日

香港 家族連れ出張 さよなら香港

あっと言う間の3週間だった。20泊21日の香港出張。数え切れないほど訪れた香港であったが、今回はこの街に実際に住めるかという実験も兼ねていたこともあり、これほどこの街と一心同体にすごしたことはない。結論は、「行ける!」というもの。生まれてこのかた、3つの国、6つの都市で暮らしてきた。その中で、縁もゆかりもなく、もっともつまらない街東京で計15年も生活していることに強烈な違和感を持っている。それに、一度アジアの街にも住んでみたかった。今、このタイミングで香港に住居を移すということは、僕の中ではあらゆる意味で、メイクセンス!年内に転居することを目標に、色々と画策してみたいと思う。

 帰りのキャセイのラウンジ。のんびりできて、食事もおいしく最高!だが、これがいけなかった.....。

 気が付いたら、出発時間の20分前。しかも、チケットの座席ナンバーとGATEを勘違いしていて、ゲートはずーーーーーーーーーっと先。子供もいては走るに走れない。Oh my goDDDDDDD!

で、どうなったかと申しますと........やっちゃいました。飛行機、乗り遅れました。これ、本当にショック。
「荷物全部下ろしましたよ」とさらりと言われる。そこに居るのに、乗せてよ~っていっても全然取り合ってくれない。まあ、当然か。あきらめて、何のオプションがあるのか聞くと、後の便に振りかえるけどお金かかるよ!っとの冷たい返事。あー、めんどくさいけど、席は空いてるだろうから、ここは強気に出たり、遜って見たり、硬軟組み合わせた交渉をするしかない。実は、こういうのは結構得意ではある。あーだこーだもめた後、5分後に「今回だっけよー」ということで、次の便にタダで乗せてもらえることに。1.5時間後だったので助かった。とはいっても、もともとの便は羽田直行。振り替え便は台北経由の成田行き。ま、自業自得なので、この辺でやめておこう。
はいはい、まさか台北に来るとは思いませんでした。3時間前までは。人生、数時間先さえ見通せないのねと改めて達観した次第!

色々ありましたが、楽しい香港出張でした。息子の一番の思い出は、「わんちゃい」のおもちゃやさんだそうです。

2011年4月6日水曜日

香港 家族連れ出張 ビクトリアピークの登る

 香港に来たら、取り敢えずこれやっとかないと.....というのが、ビクトリアピークへ登ることかな。
多分、12年ぶりだと思う。大混雑だったが、バスで登るよりもやはりケーブルカーが風情があっていい。
いやー、壮観だ。どれだけみてても見あきない。嘗てはここはあまり商業施設もなく、啓拓空港に降りる飛行機が見えたものだが......。こんな話をすると幾つだ?と思われてしまう。いや、そんな昔じゃないんだよ。あの香港ってのは。頂上でビールを一杯のつもりが、かなり寒かったので短時間で退散。

2011年4月2日土曜日

香港 家族連れ出張 休日その2

 
2回目の週末がやってきた。先ず、土曜日は飲茶に行った後に南Y島へ。これだけごちゃごちゃしたところで生活していると、週末はどこかでのーんびりしたい。そして、香港にはそんな場所があるのだ。セントラルからフェリーで30分ほどで到着。フェリーの中はリゾート気分の人々でなかなか良い感じ。

 榕樹湾に到着
 桟橋の様子
 ごちゃごちゃと南国風の狭い通りが続く。
 20分ほど歩くと、ビーチに出た。先ずは、カフェで一休み。ヤシの木がとっても南国風。
 綺麗なビーチにホッとする。

 でもね、逆方向はこんな感じ。発電所が、丸見えでちょっと興ざめ。でも、原子力じゃないよ。火力だよ。



さてさて、翌日の日曜日は、オーシャンパークへ。むかーしからある香港の遊園地。ディズニーランドが出来たことで立ち行かなくなるのではと言われたものの、きちんと投資をして運営されており、寧ろより来園者は増えているとのこと。
どことなく、垢ぬけないんだけど楽しい雰囲気。


 なんといっても、コイツがみられます。パンダです。ガラスを通さずにみられるのは素晴らしい!
 Cafeで休憩。香港島の裏側の風景。リパルスベイ等が見えます。
 なかなか暑い。男は黙ってこれを一杯!!!!いや、2杯いったかな。最高!
 イルカとアザラシのショー。メインランドチャイニーズの振る舞いは閉口。後ろの人が見えないとか全く気にならないようだ...........。

キャラクターグッズも売ってました。うん、なかなか楽しい週末だった。