三歳の息子は、テレビに子どもたちがたくさん映ると大喜びする。最近、例の東日本大震災で被災した地域のお子さんたちがよく映されるのだが、「お友だちがいっぱいだね! いっしょに遊びたいね!」と言って嬉(うれ)しそうに跳ねている。まだ、その意味を知らない子である。被災者のみなさまには、心よりお見舞い申し上げたい。
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三月一一日午後二時四〇分、私はバスに乗っていた。都心の専門学校で講義予定であった。駅に着く直前、運転手がつぶやいた。「あれ……揺れてる? 信号機が、見えづらいな」。不穏な言い方であった。五分後、世界が変わった。
三鷹駅で、地震に遭った。最初の一分くらいは誰も騒がなかったが、揺れが長引き、大きくなるにつれてさざ波のような悲鳴が広がっていった。私はと言えば、自宅にいる息子と夫が心配で頭の中はぐちゃぐちゃである。揺れが収まったところで携帯電話をかけてみたが、やはりつながらない。構内の店舗に頼んで電話を借り、自宅にかけた。
幸い、夫と子どもは無事であった。だが夫によると本棚の一部が壊れ中身は散乱し、割れたガラス片が飛び散っていると言う。講義予定の学校に連絡したら事務員ではなく知人の講師が出て、「こちらもパニックです」と言う。そうこうするうちに、駅員が拡声器でアナウンスしはじめた。「危険ですから、駅構内から退避してください!」とのこと。追い立てられるように、駅を後にした。
それから先の記憶は、思い出そうとすると、なぜか白黒画像で浮かび上がってくる。駅前の公衆電話から学校に再度電話し、休講を確認した。歩きながら、雑貨屋で軍手と絆創膏(ばんそうこう)とガムテープを買った。地震後の商店街は、異常なほど静かだった。バスが来たので飛び乗った。家に帰ると、あらゆるものが飛び散っていた。とりわけ書斎は壊滅的で、この惨状を見た息子の第一声は「すごい力が、すごい力になったんだね」だったそうである。
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がっくりくる出来事も多々あった。久しぶりに大学院の先輩からメールがあったかと思えば、「コスモ石油の爆発により、有害物質が雨などといっしょに降るので気をつけてください」という有名なデマであった。別の先輩は、「あれは地震兵器に違いない」と主張しているらしい。もう、何が何やらである。
だがその後の津波、原発事故の悲惨さを思えば、私たちの被害などかわいいものである。私の親戚は東北・北関東在住者ばかりだが、みな甚大な被害を受けた。仙台の叔父たちは被害の大きかった若林区在住である。震災から数日間、音信不通であった。福島県いわき市在住で、福島第一原発から三〇キロ地点に住む伯父たちへの放射線の影響も気になる。
私の実家は親戚づきあいが緊密で、子どものころはそれが少々鬱陶しかった。だが一七年前交通事故で母が亡くなり、同じ事故で妹が入院、父がしばらく抑鬱状態に陥っていたときには、ずいぶん助けてもらった。温かい人たちである。今、テレビをつけるたびに、子どものころから馴染(なじ)んだ場所の悲惨なニュースが飛び込んでくる。とても悲しい。
そのうえ、自分たちの安全に関わるニュースも、国内外で報道されるようになった。首都圏の大気や水道水の放射線量の数値も上がった。私はこの一か月以上、正直何を信じれば良いのか分からない中、子どもの安全を確保することに神経をすり減らしてきた。まして、妊婦や乳児の親御さんの心配はいかばかりかと思う。放射性物質は、とりわけ小さい子どもに有害だと聞く。「ただちに健康に問題はない」といわれるが、それでは「いつから」問題になるのだろう。大気だけではない。水や土壌に食糧など、総量で見ればどれだけの影響があるのだろうか。
哲学者のM・ハイデガーは、「原発とは、ひとたび造ると人間が管理させられてしまう」ものであると論じていたが、私たちが直面しているのは、まさにこの問題である。現に事故は起きている以上、責任者各位にはくれぐれも適切な管理をお願いしたいが、今なお「安全」な数値の解釈をめぐってさえ、混乱が見られる有様である。
東京、二〇一一年四月現在。福島第一原発事故は、チェルノブイリと同じ「レベル七」と公表されてから、二週間が過ぎた。被災地ほどではないが、平穏な日常からは位相のずれた日々を、私たちは送っている。だが、ここは私の国で、生活の場で、仕事もある。家族を守る責任も覚悟もある。逃げ出すことはできない。だからせめて、将来的にも影響の大きい子どもたちの健康に最大限配慮した対応を切望する。
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現在、これを書いている私の頭上を、回転翼の重たい音を立てて軍用ヘリコプターが飛んでいく。三月一一日以来、毎日のようにこの音を聞いている。どのような任務を受けて飛んでいくのだろう。この音を聞くたびに、どうかできるだけ多くの方々の命を助けてくださいと、祈るばかりである。息子は無邪気に「戦闘ヘリコプターだ!」と指さして喜んでいる。
あえて言えば、今この国は「戦時」である。日本は、災害から復興するだけでは足りない。最大の「敵」は、今まで私たちの日常を覆っていた巨大な無関心である。それこそが、経済効率最優先で人命や安全性を顧みない社会を生んだ。だからこれから先は、さまざまな問題と闘わなければならない。何のために? 未来のために。それを生きる子どもたちや、今後生まれてくる無数の子どもたちのために。すべてのこの国の「これから」のために。
みなした・きりう 詩人、社会学者。1970年生まれ。詩集に「音速平和」(中原中也賞)、「Z境」(晩翠賞)。近著に「平成幸福論ノート」(本名の田中理恵子名で刊行)。