母がいってしまった。壮絶な抗がん剤治療の甲斐もなく......。ガン関係の活字が否応なしに目に入る。果たして、進めた治療方針は正しかったのか???この様な結果となることはある程度覚悟は出来ていた。本人もそうであっただろう。しかし、人は希望がないと生きられない。やはり、確率は非常に低くても治療にかけたかった。しかし、やはり駄目だった。こうなると、最期くらいはもっと楽にさせてあげたかったという後悔が募る。「頑張る、このくらいじゃ死なんけん。」と母は何度も言っていたが、本心ではどう思っていたのだろうか。やはり、日に日にその日が近づきつつあることを感じつつ、みんなに心配をかけたくない一心からそう言ってのであろう。
2月は私と娘の誕生月だ。そこに命日が重なるのは嫌だ。兎に角2月は頑張ると母は言っていた。そして、私の誕生日が終わり3/1になって15分後にいってしまった。これほどの愛情表現はないよ........。そのことだけを伝えたくて、最期の1週間は朦朧とした意識の中で母は頑張ったんだなぁ。最期に、強烈なパワーを貰った気がする。
よく、帰省時に子供3人+父で難しい話をしているときに、「私が育てたとよ!」と母は口を挟んでいた。それは本当にその通りだった。子供の教育ってのは、小さい頃から塾に入れたり、お受験させたりすることではないよね。母からは一度たりとも勉強しろと言われたことはなかった。ただ何か起きたときには守ってくれるであろうという安心感と、いい結果が出たら無茶苦茶喜んでくれそうだという期待だけ。それで、子供たちは、半ば父親不参加の中、勝手に頑張って、一橋だの東大だの合格するし、日の丸背負ってアメリカと交渉するしで、きちんと育っていった。母親業という職業があれば、文句なしに大成功を修めたと言えるだろう。
あ~、しかし悲しいよ。寂しいよ.............................。
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